日清・日露戦争後の不景気、相次ぐ大災害、伝染病との闘い。
大正デモクラシーの明るいイメージとは反対に1920年代の日本は貧乏、病気と、生きていくのに本当に大変な時代でした。
大正から昭和、平成そして令和へ。
創業から太平洋戦争へと突入をし、数多くの危機を乗り越えて今に至った丸美産業のストーリーをお伝え致します。
この物語の
始まりは
年代
年
月日
誕生
繊維産業の中心地であった一宮市尾西起町にて嶺木丵(しげる)
の長男嶺木一夫誕生
第一次世界大戦による空前の好景気、狂乱物価をもたらした年
となる
年
月
創業
ヨーロッパ列強は市場に復帰、世界が生産過剰となり戦後恐慌
に突入、3月15日東京株式市場が大暴落
岐阜県垂井町から移住して先代から含めて28年間営んでいた
一宮市起町の機織り業を畳んで転業
名古屋市中区の完成後間もない新堀川にて嶺木丵が丸美材木店
として始める
年
承継
嶺木丵が享年36歳にて急死したため、
近藤助三郎(嶺木丵の義兄)が承継
この年、ニューヨークの株式市場が大暴落、世界恐慌へと突入
年
戦争
- 近藤助三郎の死により嶺木丵の長男一夫が弱冠20歳にして
丸美材木店を継承
未経験だったが初期の戦争景気により商売は順調に推移
年
徴兵
- 嶺木一夫 軍隊の召集を受ける
- 在庫整理、売掛金の回収を数日で行い経済的打撃を受ける
- 中国へ衛生兵として出兵 上海、九江、武漢の野戦病院を回る
- 姫路から従軍看護師として来ていた八重納と出会い帰国後に結婚
年
帰還
- 兵役解除により帰還
丸美材木店は戦時中の企業統制整備令により廃業となっていた
年
再徴兵
- 嶺木一夫 再度の召集により太平洋戦争末期の
フィリピンへ特別攻撃隊付衛生兵として出兵 - マニラ近郊のリンガエン湾にて米軍に船を撃沈される
- フィリピンのジャングルを1年間米軍から逃避行する
年
終戦
- 終戦後マニラ南方のバタンガス収容所に1年間収容される
この時戦争捕虜としてアメリカの合理主義に強い印象を受ける
年
月
生還
- 嶺木一夫フィリピンより生還を果たす
- 変わり果てた日本、名古屋の姿を目の当たりにすると共に
祖母がすでに他界していた事を知る
年
月
再開
- 嶺木一夫 嶺木丵の残した新堀川の土地で木材業を再開
- 友人と共同により資本金18万円で先代の屋号丸美を継承して
従業員3人を雇い合資会社丸美商会を設立する - 北海道で入札に参加し、室蘭港よりナラ、タモ、キハダ、
セン、カツラ等家具用原木を名古屋港に移入 - 海上保険が未整備であったため輸送中の事故等もあり
大変苦労をする - 戦後の復興景気により北海道広葉樹材は飛ぶように売れ、
丸美商会の成長と発展に弾みをつける
年
月
成長
- 堀川下流の熱田区白鳥に出張所を開設し、
木曽檜の販売を開始する
年
月日
設立
- 嶺木一夫が協同経営から独立し、名古屋市中区の新堀川にお
いて資本金65万円で丸美木材株式会社を設立する - 伊豆方面の山林経営に乗り出し山林を購入。欅等の天然優良
大径木が大量に出材し財政的基盤づくりに大変貢献する - 台風により伊豆の岸壁土場の原木が海に流出し漁船に
多大な被害を与える - 山師による良材の窃盗、購入代金持ち逃げ等により何度も
赤字を被る - 天然の広葉樹材が減少し徐々に針葉樹材へ、伊豆から岐阜県
飛騨地方の山林事業へ移行する
年
月
本社移転
- 針葉樹の取り扱い増大に伴い名古屋木場街の中心、中区正木町
(堀川中流)に本社を移転 - 岐阜、長野、九州、四国の山林から集材、5指に入る官材問屋
に業容を拡大する - 鉄道車両用材、造船用材として原木を販売
- 設立時からの熱田区白鳥貯木場(堀川下流)に隣接する出張所
に製材工場を2か所建設し製材品を納材 - その後朝鮮復興特需により3年間ほど商社を通じて大韓民国へ輸出、
好景気が続く
年
渡米
- 戦後復興需要で大量の木材消費により国内の森林が枯渇し相場
が高騰 - 嶺木一夫 木材購入のため渡米
年
月
本社移転
熱田区白鳥の製材工場兼貯木場隣接出張所に本社を移転する
年
月日
災害
- 伊勢湾台風襲来 貯木場から20万トンの木材が流され住宅地
を襲った - 当社も白鳥の原木が全て流され膨大な被害を受ける
年
多角化
- 商社を通じて米材原木を輸入、販売を開始する
現地の輸出港の不整備、運搬船の問題、日本での通関等で経費
が嵩み、まったく採算が合わず苦労をするが輸入材の時代到来
を確信し継続して取り扱うことを決断 - 名古屋の貯木場が熱田区白鳥から港区木場、東名古屋港、金城
ふ頭、南区加福へ広がる
建材
- 建材の取り扱いを開始する
原木商売と比べ魅力は少なかったが多角化への第一歩となる
年
月
本社移転
- 名古屋市瑞穂区瑞穂通3丁目に本社を建設移転する
別荘地
開発
- 度重なるアメリカ出張により現地のアウトドアライフに魅せら
れて山中湖畔に個人用別荘を購入 - これは事業になると直感し三重県伊勢志摩で地元業者から情報
を得て15万坪と8万坪の山を購入 - 山林購入と手荒い山師との交流により養われた直感力を活かし
て別荘地の開発分譲を始める - この別荘地分譲事業により不動産との関わりが増加し後のマン
ション事業へと繋がっていく。
年
サッシ
工場
- 南区弥次ヱ町に工場を造り金属サッシの加工販売を開始する
年
木材倉庫
移転
- 木場の中心が港区から埋め立て完成をした名古屋西部港(愛知
県飛島村)に移るとともに名古屋西部木材港の土地約8,000坪を
購入、木材倉庫を移転
年
月
マンション
・
商号変更
- 嶺木一夫がマンション事業を研究するために東京を視察
- 将来性を感じたため分譲マンションの販売を開始する
- 丸美産業株式会社に商号を変更
年
月
- 岐阜県御嶽高原において80万坪の山を購入別荘地開発分譲を
行う
年
住宅分譲
- 分譲住宅の開発販売を行う
- 別荘地管理、マンション管理を事業主体とした
丸美リッチランドサービス(株)を設立する
年
月
継承
- 嶺木昌行 社長に就任
- マンション事業の成熟化、採算悪化により大幅に縮小
嶺木昌行社長の決断により事業閉鎖は免れ、年間1棟 最低限の数を残して継続
年
山林育成
- 北海道蘭越町20万坪の山林に植林 2048年、2076年頃伐採する
予定
年
月
直輸入
- カナダのバンクーバーに木材輸出会社MARUMI CANADA
LUMBER LTD.を設立 - バブル経済の崩壊により木材、建材の市場が急速に縮小
- 地価の下落により住宅価格が下落 そのため潜在していた需要
が目覚めチャンスを捉えてマンションの売り上げを拡大する - 一方原木事業、建材、金属サッシ事業は撤退、木材製品事業も
大幅に再構築された
年
- プレカット工場(金具工法)を開始するも軌道に乗らず2年で
閉鎖
年
月
中国進出
- 丸美リゾート飛騨秋神高原朝夢美館オープン
- 木材の輸入が増加したため中国・成都事務所を開設
年
月
模索
- 木質系建材輸入のために中国・大連事務所を開設
- バブル経済崩壊以降マンションにより財務基盤は大きく改善さ
れる - 三河、三重、岐阜、静岡、大阪、東京、タイのバンコク
等へ多展開そして閉鎖、新規事業の発足と閉鎖を繰り返し、
試行錯誤の20年間が続く
年
月
建設業
- 住宅建設会社丸美デザイン&コンストラクション(株)を設立
年
月
継承
- 南喜幸 社長に就任
年
月
社屋建替
- 本社社屋老朽化により建て替えを実施する
- 世界同時不況により打撃を受けるが地道に営業活動を行い回復
を果たす
年
輸出開始
- 国産材原木輸出開始 2年後の2017年には売上20億円、
これはこの年の全国輸出額の6分の1であり日本一となる
年
月日
永眠
- 嶺木一夫 永眠する 満100歳
- 現在の丸美産業創業者嶺木一夫の波乱に満ちた人生、しかし
晩年は幸せな日々も過ごすことのできた長い人生に幕を閉じた
年
月
継承
- 嶺木一志 社長に就任
年
創業
100周年
2020年丸美産業は4年連続原木輸出量で日本トップとなっています。アメリカは世界一の木材の生産大国であり、1990年代、私が20代だった時には、日本はその最も良い材を輸入する国であり、それが長く続くと思っていました。近頃アメリカへ木材製品の輸出を開始しましたが、当時は日本からアメリカへ木材を輸出する日が来るとは1%も考えていませんでした。時代の移り変わりと共に丸美産業も柔軟に変化をし、社会に必要とされる企業であるために研究を重ね続けたいと考えます。
社長 嶺木一志